商店会について

 「黒門町商店会」は、台東区上野1丁目(1番~19番)を区域として、令和4年4月1日に発足しました。商業を営みこの会の目的、事業の趣旨に賛同する個人又は団体により構成しております。

 アフターコロナの活動を見据えまして、商店会の育成・発展のための共同事業や企業連携、幅広い広報、イベントなどを企画していきます。また、会員各店の事業の繁栄と地域の発展に寄与するとともに、会員相互の親睦も図っていきたいと考えております。

 一企業だけでは解決できない地域の課題に取り組み、地域の皆さまの利便性の向上、地域の魅力の向上、来街者の増加、地域の活性化を目指してまいります。

 商店会へのご加入は、

 e-mail: kuromonchoshoten@gmail.com まで。                             


「黒門町」町名の由来

「黒門町」という町名の由来は、江戸時代まで遡ります。

 時は寛永二年(1625年)、徳川三代将軍家光の治世、東叡山寛永寺の創建に伴い、翌年(1626年)、その門前町として黒門町が造られました。

 この時の町名は、既に寛永寺の総門であった黒門の前に「上野元黒門町」として町が形成されていたため、「新」の字を冠して「上野新黒門町」と命名されました。このことは『御府内備考』(江戸時代後期における江戸市中の地誌)に「東叡山御成門前地に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と記されています。

 また「上野新黒門町」はもともと御成道(万世橋から上野公園に至る現中央通り)の両側に形成された町でありましたが、明治二年(1869年)、御成道を境目に東西二分され、「上野西黒門町」、「上野東黒門町」として新たに発足しました。

 その後、上野西黒門町は明治五年(1872年)、伊勢亀山藩石川家上屋敷と武家小屋敷を合併し、上野東黒門町も壬生藩邸を合併したことでそれぞれ町域が定められ、今日へと到る原形となっています。また明治四十四年(1911年)には、「上野」の二文字を略してそれぞれ「西黒門町」「東黒門町」と改められています。戦後においては昭和三十九年(1964年)、住居表示制度により西黒門町は「上野一丁目」、東黒門町は「上野三丁目」に編入され、今日まで続いています。

尚、江戸寛永時代から明治維新まで230年以上続いた石川家上屋敷の「銀杏稲荷」は、町内鎮座の「火伏の神」下谷箭弓稲荷として現在も存立しております。